始終 キラキラが目に見えるくらい 眩しい光で満ちて、取り巻く空気の粒子がたっぷり温度たくわえて、笑い声が起きるたびに ふさぁって あたたかな風を巻き起こすようだった。
紙飛行機みたいな小さな飛行機を見送ると、そこにはふたり 取り残された私たちがいた。
かけらが欠けて
温度ががくんと下がり
ぬるい空気になった。
お砂糖の泡ように
ふしゃっと消えてなくなった。
朝から洗濯したり支度したりして出かける時間にそなえてた。
さぁ そろそろ、とあわてて慣れないストッキングをはくと、少し前に塗ったばかりのマニキュアが全部の指、ぺりっとはげた。
とたんに自分でコントロールできないほどに意気消沈して、あとは止まらなかった。
とればいいのにそれもいやで。かといって諦めもつかず。
起きて間もないのにわたしのために写真をプリントアウトしてくれ、自分もあせあせ準備してるゆうくんが、一生懸命私の気落ちをなぐさめて励ましてくれてるのに、八つ当たりをして。大事なこたちも置き去りにして。
思い出してもどうかしてた。
ひとり、勝手にむやむやかっかして収拾つかなくなってたくせに、ゆうくんがさすがに怒って先に自転車で駅に向かう後ろ姿を目にすると、とたんに水をかぶったみたいに全身の血の気がひいて 目が覚めた。
なんてことしたんだろう。なんて酷いことしたんだろう。
ひたすら漕いで走って駅につくと、乗るはずだった電車がちょうど出たばかりだった。
電車が通りすぎると、そこにはゆうくんの姿。
いまさら焦っても、いまさら謝っても仕方ないのに、謝るしかできなかった。
池袋でこみあった車内が少しすくと、それまで少し離れたところにたってたゆうくんが、こちらに振り向いて じんわりあったかい陽なたみたいな顔で微笑んでくれた。
あぁ もう なんてことだ、なんて大きいんだろう、わたしは甘えきって こんなに大事な人に 酷いことをした。
反省しきり、それ以上にこころの底から 全身まるごとでありがとうを想った。
わたしは ゆうくんのおかげで私を生きていられる。
ありがとう。
たくさんたくさん練習したら、おんなじポーズはそれなりに描けるようになったけど、別の角度、別の仕草はムリだった。
仕事するようになったら、スタイル画を描くことはなくなり、平面図に近い絵を描くようになった。
最初、平絵のごまかしきかなさと慣れないカットソーの作りに辟易とした。
絵を描くのは好きなのに、でもそれは、たぶん私は「手が知ってる範囲の絵なら描くのが好き」なんだろな、と思って諦めてた。
今 こんなとき 絵が描けたら、とおもうことが多くても、もやんとした線だけ描いて そのぱっとしなさにがっかりしてた。
でも何年か前から ゆうくんへの置き手紙を書き始めてから、なんだか変わってきたらしい。
小さなたぬきの絵が、いきいき動き回るようになった。
それは不思議な感覚で、私が試行錯誤しなくても、手が勝手にするする動いて、たぬきが自分で紙の中からむくむく現われてくるみたいに気付くと そこにいる。
飛んだり跳ねたり踊ったり料理をしたり。
おととい、ゆうくんにスケッチブックをもらった。
ひとつ 自分のなかの苦手意識とりさって、描きたい絵をたくさん描いてみたくなったから。
イラストっぽくなったっていい。しょぼくたっていい。
描きたいだけ描いてみよう。
そう思って。
昨日の夜、ゆうくんの帰りを待ちながら、机に向かって絵を描いてみた。
こうしたいのにこれは違うあれも違う、そんなこと思わずに ひたすら描きたいものをどんどん紙のうえにちりばめていった。
描きながらふと、「あれ?この感覚、子供の頃以来の感覚かも。」と思った。
ただ 絵を描きたいから描く。
みられたい雰囲気にしたいのにならないジレンマもなく、ただただ描きたいから描く。
すっごく楽しかった。
いっぱい描こう。
朝から気分悪くなるくらい緊張して緊張して。
なんとか約束の2時に間に合わす。
今回は前回の反省を含め、一型一型 想いを込めて、しっかり細部のこまかな仕様も像となって見えるくらいに気を配った。
自分のおもいをちゃんと伝えられた。
お取り引きをはじめる、新しい海外の会社へもおんなじ姿勢で望めた。
相手にしてみたら私が二年目だろうがそんなこと関係ない。というか そんなことわからない。
精一杯 いいものを作れるよう 自分の想いをことばにして伝える。
いまさらだけど、やっぱりここの「伝える」力はかなりかなり重要だ。
予想をはずれて ぜんぜん休めるタイミングじゃなくて、数時間の睡眠時間中に、あの企画書も出してない!とかあの企画書に付属の指示入れてなかったからもうサンプル間に合わないよ!とか泣きそうになる夢を見て、ほんとは6時半に目覚ましセットしてたのに寝付けなくなって5時半すぎに目が覚めてしまった。
でもでもこの週末は、この連休はスペシャルな三連休。
やっと神戸に式場見学にいけるんだから。
その前に1日だけだけどうちに帰るし。
早起きして準備を済ませ、パソコンを開いて 持って帰るべきか落ち着いて考える。
昔から変わらない、私のくそ真面目な心配性の癖が昨日の晩から暴れていて、頭の中でいくつも「もし週末、祝日休まず普通に会社に行っていたら、来週どんな風にスムーズに進むか。休んだ時にどうやってそこまで追い付いて来週しんどくなくやるか」をシミュレーションしてみる。
シミュレーションしてるうちは ただただ心配だけが盛り上がってきてどうしようもなく不安になっていくだけ。
昔からその不安がいやで、前に前に手を付けて あとから楽できるようにしてきた。小学校の夏休みの宿題から。実は結局 休みを全部苦しく過ごすはめになるのは知っていても。
今朝もパソコンを実際みてみるまで心配に絡めとられそうだったけど、みてみてよかった。まだパソコンが必要な段階じゃなかった。
ほっとして、絵型の用意だけして荷物を作った。
ゆうくんに見送られて、自転車で駅までいく。
破れるようなつめたい空気の中で突然すこんと抜けた。
いいじゃないか、と。
休んだことで結果的に苦しくなったとしても、人に迷惑をかけないように自分でその時一生懸命頑張って巻き返しはかればいいじゃない、と。
大事なこの三日間を、もっと大事なものになるように、思いっきり手足伸ばすほうが大事だ。
いいおやすみにしよう。
「よい週末を〜」の30日の挨拶に、あぁ週末扱い程度のおやすみだなぁとちょっとしょんぼりなってたけど、やっぱり普通の週末とはちがった。
びよーんと間延びした時間がてれてれとろとろすぎていく。
特になにをするでもなく、ただあたたかな部屋でお父さんお母さんおばあちゃんと毛布で足をあっためながら過ごす。
メリーをもみくちゃにしながら。
お母さんが銀杏をストーブで炒って、全部きれいにむいてくれたのを食べながら、ときどき思い出したようにするトランプ。
きづくと毛布にくるまって寝ていたり。
4時半くらいからおいしい晩ごはんを食べてほかほかになってバイバイをして、大きくてこわいくらいの月と煌めく星を見ながらうちへ帰る。
三晩ともお父さんお母さんと晩酌をした。
96年もののコルクがもうかびてしまいそうになってる赤ワイン、酒屋さんでボトルの綺麗さで父さんが直感で選んだ白ワイン、おばあちゃんちの帰りに寄ったスーパーでお母さんと選んだスパークリングワイン。
毎晩ワインとおつまみをお盆いっぱいにお母さんが用意してくれて。
テレビの音を聞きながら、三人ともいつもより少し陽気にわらいながら。
なんにも特別な行事のないお正月。
でもすべての瞬間がいとおしく ゆるゆるからだに染み込んだ、素敵な素敵なお正月だった。
飛行機から見た、魔女の宅急便の景色みたいな夜景。
宝石がちりばめられて輝いているかのような景色。
あの光のなかの一粒が、うちの光なのかとおもう。
そこへ無事帰れるようにと見送ってくれたお父さんお母さんの無事を願い、ずいぶん遠くまで来てしまった自分を思い、哀しいような寂しいような想いと、すごいタイミングでとってくれた奇跡の一席のありがたさを噛み締める想いが入り混じって、ぽろぽろ涙が流れた。
いい おやすみだった。
ほんとうに。