くうきのいろ: 201002

2010-02-28

ただいま

金曜日からの初韓国を終え、今かえりの電車の中。

一言で、
韓国は好き。

なんなんだろうな、なにがちがうんだろな。

あちらこちらですぐ路上でフリマみたいなお店開いちゃったり、道路のでこぼこ具合だったり、はっきりした性格だったり、っていうのは上海と変わらないはずなのに、ぜんぜん受ける印象がちがう。
気持ちの問題?

でもやっぱりちがう。
人ははっきりした性格だけど、漂う空気が穏やかで、笑顔をもらうと染みるように響いてきた。
独自の文化と、取り入れる文化の割合が日本に近い気がした。
街全体に、たのしげな活気があふれてた。

ごはんもおいしかったし。どれをとっても滋味深い味がした。
高麗人参、生姜、栗、牛肉、唐辛子、葱、五穀は、食べたどの料理にも入ってた。


瞬間的なすききらいで、直感的に好きな国だった。

2010-02-26

すっとこどっこいふたたび

信じられない。

まだかなまだかなと京成スカイライナーをホームで待ってて、入ってきた電車が、向かいのホーム側だけ扉をあけるから、「降りたらこっちがあくんだろう」と待ってたら、扉を閉めてぷぷーと行ってしまった。

理解できなくて、でもよく見たら、立ってるホームはただのホームで、向かい側がスカイライナー用だった。

ほとほと自分に呆れる。あれだけ時間に余裕みて準備してたのに。

にこにこ待ってた自分が哀しすぎる。

2010-02-25

欠如

だめだ。いろんなことが足りないか欠如してる。
仕事だって一人前じゃないのに、そのほかのこともどこかおかしい。

自分は人に対して寛容だとおもってたけど、ただ無関心なだけかもしれない。もしくは、自分のキャパが狭すぎて、距離が遠い人には極力バリアをはって 自分でシャットアウトするから、わたしとは無関係だという気持ちから、寛容なふうだと 自分自身で勘違いしてるだけなのかもしれない。

人の関係は 作り上げていくもので、勝手にできるもんじゃない。

わたしは それをもっときちんとやっていかないと、大切な人やことやものを取りこぼし、気付くと失ってる、なんてことになるかもしれない。

カードってむずかしい

お母さんのお誕生日プレゼントを送るために、今日はカードをつくろうと昨日からいろいろ あれこれどんなのにしようか考えてた。
素晴らしくきれいに色鉛筆が乗るスケッチブックに描こうと、いろんなのを考えてたけど、できあがってみたら、おや?っと首をかしげるような、小学生みたいなカードになってしまった。

描きなおそうかな、とも考えたけど、なんだか描きなおすとそこにこめたものも消えちゃいそうだから、母さんにはきっと うまいへた関係なく、想いは伝わるだろうと勝手に解釈して、そのまま ラッピングした。

カードってむずかしい。

奥がふかい。

飛びだす絵本みたいにしたいと思っても、あの仕組みは生半可なもんじゃできないし。

2010-02-23

フィッティング1日目おわり

朝から みんなぴりぴり。
ふだんなら9時すぎてからでもくるチームの人も、8時半には自然と集まっていた。

今日はフィッティング1日目。
Tシャツ、フリース、はおりものの予定。

先週、社長へのプレゼンの前日の夜中に 何時間もかけて、
みんなで意識を共有しあって 相違ないように商売の軸を組み立てたはずだったのに、
プレゼンのあと、週末あけて出てみたら、MDからはなんの説明も受けず、あれだけ「いいね!売れるね!」となってたはずのものが、ばっさりどっさり DROPされていた。
全体に会議の結果を知らせるミーティングのとき、「これは出さないから」という一言だけで、
生まれるはずだったかわいい子たちが ラックにかけられたまま 隅においやられていた。

デザイナー4人で憤っても、商売を司るMDの決めたことをやすやすと覆すことはできないはがゆさ。
どれだけの時間と労力と想いを込めて、その商品を作ってきたことか。

今日のフィッティングはそんなふうに抜かれ、生き残った子たちのフィッティングだった。

私が担当していたものも大幅カットになり、だからこそ、一生懸命さが増した。

今回は、今までのフィッティングとは少し違っていた。
自分自身 見なくてはいけないポイントが少し前回よりかは明確になっていたし、
なにより、周りが私を「担当者」として見ていた。
今までは 企画書をわたしが担当していたとしても、やっぱり私だけでは全然力不足だから先輩たちがかわりにあれこれとパタンナーさんに指示を出して下さっていたけど、今回はわたしが持つ品番がやってくると、すっと身を引いて そばから時折意見をいうにとどまっていた。

最初とまどい、でもすぐに、気持ちを改め 気を引き締めて、きちんとわたしが思うポイントをチェックしていった。
Tシャツに関しては、やっと見るべきところ、何を考えなくてはいけないかがわかってきた気がする。

フリースはやっぱりまだあとひといき。
このシーズンを越えれば、これを踏まえて、来年の今頃はたぶん大丈夫になってる気がするけれど。


ひとつ。
フィッティングは、ただ寸法確認やサイズ感の確認の場だけじゃない、ということを今日身を持って体験した。
「よりよい商品にしていくこと」はそれだけで成せることじゃないんだ、と知った。
今ある 実物を前にして、そこにどうやったら価値観を追加していけるか、
どうやったら「本物の洋服」にしていけるか、ありったけの自分の知識と経験を持って、考えて考えて形にしていくためのことでもあるんだ。
そのためのリサーチなんだ。
わかりつつあったけど、また一つ、得た。

ぱっとみて 正しいバランス、美しいバランスを判断し、指示できるようになるためにも、
たくさんの洋服を見、着てみなくては。
雑誌やネットで「形」の資料は集めることができるけど、サイズ感は実物を着て体感してみないといつまでたっても身に付かない。

ん??と思うバランスで上がってきても、そこで粘って、あるべき形に持っていってやって
「自分の商品」にしなくてはいけないんだ。

わたしの服には迷いが見える。
今日、すごくそう感じた。

絵ではかわいいような感じ、で、それが形になってあがってきてるんだけど、
洋服に対する知識の少なさのせいで、どこか「嘘もの」の洋服になってる感じ。
洋服のつもり、みたいな。
不思議な、どっちつかずのテイスト、みたいな。

今日はとても勉強になった。

わたしの子たちを、いいね、これ、と言ってもらえるものにがんばって仕上げていきたい。

2010-02-22

さくさく うれしい

今日はさくさくを心がけた。

しんどがらず、めんどくさがらず。
さっぱり、シンプルに。

そうすると、なんだかいつもより多くの仕事を予定してた時間内でおわらせることできてうれしい。

最近 毎日、チーム4人で冗談いっては笑ってばかりだし。あんなに険悪でぎすぎすしてたときあったのに。

今日は 昨日塗った爪が手元ですきな感じにつやつやしてて、動かすたびにうれしくなった。


昨日夜作ったサバの南蛮漬けが一歩お母さんのに近づいた感じだし。たっぷりあるから いい一週間の始まりだ。

2010-02-21

もしもし模試

TOEICの模試を買ってみた。

昨日の夜はやる気出ず、目の端にはいるのを知らんぷりしてたけど、朝の明るくて静かな、この大好きな時間なら。

問題解く白い紙探してたら、あっ!と目に入ったのが 広告の裏。
実家的。

2010-02-20

サルビアさんの週末ストック

今日はお昼から日本橋の高島屋へ、お母さんのお誕生日プレゼントを買いにでかけた。
お目当ては有次のいちょうのまな板。
有次のお店をさがしてさがしたら東京は日本橋高島屋にしかない、ってことがわかり。
そこから また いちょうのまな板があるのかどうかも問い合わせ。

今日はいく前から「ありますように。ありますように。」となかば祈りながらいって
7階の和調理器具コーナーに しずかにしゃんと並んでるのを見たら、うれしすぎて声がでそうになった。

普通サイズのものをすぐに「これ買います」と。
これ一個じゃなくて、もういっこなんかおまけつけたいなぁーと ぐるりと売り場を廻って吟味。

で、いいものみつけました。
VACUVINっていうオランダのキッチンツールメーカーのワインストッパー。

筒をワインボトルにかぶせて しゅぽしゅぽしゅぽって自転車の空気入れみたいに上下させると、中が真空にできるすぐれもの。
ワインだけじゃなくても、酸化すると味が落ちるものにはなんでも使えるらしい。

この間 うちに帰ったときに、飲みかけのワインをしまう時に お母さんが「これの蓋できるものがあればいいのにねえ」と言ってたのを思い出して、あ!っと。
いいお買い物したー。
すごく満足。

高島屋をほくほく出たら、目の前に丸善!
知らなかった。
今日は大きな本やさんに行きたかったから、なんて素晴らしいタイミング。

下の階から上までじっくり見てたら、2時間半もたってた。あっというまに。
本やさんはたのしいなあ。
本ってこんなにいっぱいあったのか、なんか 最近見てないもの多すぎたなあ、もったいないもったいない
って、すっごくキラキラしてみえた。
全部よみたくなった。
図書館もすごく素敵だけど、本はあれだけがすべてじゃないなあ。

今日 買った本。
TOEICの本と(これは半ば自分への義務)
ワタナベマキさんの「サルビア給食室の週末ストックと毎日ごはん」。これは今日のご褒美用。


ぐるぐるまわっていろんな本を見ていたら、
大学生の頃 毎週末、吉祥寺のリブロをのんびりぐるりと一通り見てまわって、こういうちょっと写真がきれいな料理の本を買うのが好きだったのを思い出して、どうしても なにか 料理の本が欲しくなってしまったので。
いつぶりかの料理本。

帰ってすぐに、スーパーに野菜をどっさり買いにいって、とりあえずいくつか作ってみた。

長ネギのマリネ、根菜のみそ漬け、キャベツの塩漬け。

全部タッパーに詰め終えたら、あとは寝かす。

寝かす、って好き。
冷蔵庫から出したとき、色が変わってたり、量がしんなり減ってたり、味が濃くなってたりするのを見るとうれしくなる。
育ってる感じで。

明日がたのしみー

メダルのメール

今日の(もう昨日だ)お昼過ぎにお母さんからメール。
珍しいなとみると

「隣町のヒーロー大輔くんが銅メダルだ!」
と一言。

あまりにかわいらしくて思わず保護してしまった。

帰ってニュースでみて、
体育館みたいなとこで、
着物をちゃんと着て応援してるお母さんの姿見たら、じぃんとして涙が出た。


隣町って響き
いいなぁ。

ひさしぶりの英語

今日は夕方から 新しい取引先との商談。
インドネシアに工場を持つ韓国の企業と。

ひとつき前に依頼したサンプルを見てのやりとり。

まあまあの出来で上がってきて、ひとまず上司に好評価を頂き、ほっとひと安心。

商談が終わり、片付けをしている最中、後輩に先方のデザイナーさんがなにやら話しかけている。

彼女は韓国人で、できる言語は韓国語と英語。
まったく日本語が通じない方。

後輩は 出来る言語は関西弁のみ。

真っ青になってる後輩。

なんだろ、と近づいて聞いてみると、英語で話しかけられていた。

久しぶりに英語を話した。
お互いネイティブじゃないから、簡単な英語ではあるんだけど
今回あげたサンプルは全部こちらがキープするのか、できればいくつかは今後のために持って帰りたいんだけど、という内容。彼女に「来週の会議のために、できれば全部キープしておきたい」と話すも、どうしても持って帰りたい様子。きちんと説明をしたかったんだけど、途中で日本語ができる方が間に入って通訳してくださったのでせっかくの機会はあっというまに終わってしまった。

でも ちょっとの間とはいえ、やっぱりたのしかった。

回りくどい言い方で、しかも単語が思うようにでてこなかったのが、ショックでもあった。

今度、会社あげてTOEICを受けることもあって、
ひさしぶりにしっかり勉強しなおそうなかな、と思った。

2010-02-16

フォーチュンクッキー

お父さんへのバレンタインのプレゼント。

フォーチュンクッキー。

食べるとなかからたぬきがメッセージとともに出てくるように作って、一つずつキャンディーみたいに包んで送った。

お父さんとお母さんからそれぞれメールがきて、楽しんで食べてくれたみたいで、ほかほかうれしい。

2010-02-13

クアアイナ

今日はひさしぶりのおでかけ。

歩いてみようと歩いた甲斐あり、クアアイナを発見。

窓際のカウンターでのんびり遅めのお昼ご飯。

完成

お父さんへ、珍しく、手作りプレゼント完成!

2010-02-09

週末をこえて

離れて 冷静になるとみえてくる。

今のわたしのいるところと、その中でいかに自分が麻痺し、本来の素直さをしまいこんでいるか、が。


会社に守られている、そしてその囲いから自ら出ることを怖れてる。

この囲いの中では、今の延長線上でちからを発揮していれば、完全に守られ、名誉とお給料は安泰で充分な生活は約束されている。

自分のデザインが、たくさんの工員さんたちの手によって作られ、世界中で売られ、着られる。

それなのだ。
お給料ももちろんだけど、自分のものが幅広い人にきてもらえる、それが魅力的なのだ。


でも。
ある意味、それはただの自己満足でもある。


キャリアってなんだろう。
人生ってなんだろう。

順風満帆にこの先の人生を歩んでいくと安心してた矢先。

仕事をとるか。
こころをとるか。
の選択。


週末を 静かに過ごし、考えた。

現実的に考えて、わたしにひとりで暮らすことが可能なのか?

否。

なんとかやりくりできたとしても、仕事の達成感は味わえるとしても、ほんとの意味での幸せは感じられない。

なんのためのキャリアなのか。
人生ってなんだろう。
わたしにとって。


神戸で感じた、あの、小さな世界ながらも中身のある、あたたかでキラキラしてる世界の、直にこころに響いてくる感じ。


ほんとのわたしは ちゃんと道を知ってるはずなんだ。

2010-02-07

ミシン

さむいさむい。

午前中、お酒が残るからだとあたま。

しんとした部屋。


ゆうくんを見送り、あんまり天気がよさそうだから 強制的に活動することにする。

珍しくラジオをつけてみる。
人の声がするのが なんだか安心。

部屋の掃除、洗濯をして
ある程度 からだがしゃんとしてきたから
昨日のつづきの縫い物をした。

定番のシュシュ、3代目。
おっきくてまんまるのができた。

せっかくひさしぶりに出したミシンをしまうのが惜しいから、
この勢いで、と、前々から直そうとしてた洋服を3着直すことにした。

まずは、この間みつけた、一度も着てないトップス。
もともと袖口にモビロンテープが無造作に縫い付けられて パフスリーブにしてあったもの。
袖口がきつくて 赤ちゃんみたいなシルエットになるのが気に食わなくて、買ってすぐにとりあえずテープをとったっきり、そのままになってた。
細三つ折りにして縫ったら、たったそれだけで着れるものになった。
なんだ、早かったじゃん。めんどくさがりすぎてた。

2着目。
無印で2年前にかった前開きのワンピース。
なにかの拍子に裾に2カ所 おっきなしみがついてしまって、それ以来 ずっと眠ってたやつ。
捨てるに忍びなくて、いつかなんとかしようとおもってた。
今ちょうど ぽわんとしたコットンのブラウスが欲しかったから、思い切って裾を切って短くすることに。
着てみてだいたいの丈を決めて、寸法合わせてざくっと切って、三つ折り。
ウエストのリボンは残して、結んだ時にギャザーが寄るシルエットにした。

3着目は、シルクをヴィンテージ風にウォッシュかけたり染色したりして加工してあるワンピース、
着すぎてすっかりほつれたり 穴が開いたりしてるのを、スカート部分を切り離してトップスに変えた。
スカートにはぽっかり穴があいてるから、もう布地として 今度髪飾りにでも作り替えるつもり。


ミシンを踏んでると、なんだか なにか 胸の奥からつつかれるような気がした。

ほら、こうやって縫ってたじゃん。
出来上がりを思い浮かべながら、自分の手で作ってたじゃん。
縫い上がりを左右するのは、この 自分の手だったじゃん。


そうだった、と。

2010-02-03

きらめく 白い紙袋の旗

3時半にうちを出た。空港まで40分のドライブ。

出掛けに お父さんがいつもにはなく 笑顔の奥が寂しそうだった。


早めについて、空港の売店でおみやげをお母さんと吟味して買うと、天満屋の大きな紙袋にいれられてしまった。あ、袋いいです、と言いそびれて。


袋からだして荷物をまとめると、お母さんが「紙袋持って帰るよ」と言ってくれるから、手渡しながら半分冗談で「じゃあ 母さん、これ目印の旗にして振ってね!」と 言って笑った。


ANA 17:00発。
飛行機にのる橋の窓から展望デッキをみると、すぐそこにお母さんの姿。
わぁ!っと手をひとしきり振って、じゃあ いってきます、と心の中で唱えて飛行機に入った。

席は翼の少し前、窓際。
伝えてたから 見えやすい場所にお母さんがいてくれるのが見える。
手を振ってくれてる。

と、お母さんの手には、さっき 私が手渡した 紙袋!
ちょうどいいサイズに折り畳まれて 母さんの手におさまっていた。

それが 夕陽をうけて 真っ白に反射してキラキラ輝いていた。

お母さんの側からは私の姿は見えないのに、まるで見えてるかのように手元で小さく一生懸命振ってくれてる。

すっかり小さくなったお母さん。
一人になったあとの帰り道や、うちについた時のがらんとした感じに受けるだろう気持ちをおもうと、この瞬間が毎回つらすぎる。
今回も何日も前からこの辛さをおもうと、胸がしくしく痛んだ。

でも、お母さんは、「母さんは大丈夫だから心配せんのよ」と気丈に送り出してくれた。

そして、展望デッキで一生懸命、冗談いって笑った紙袋の旗を振ってくれていた。
パタパタここまで振る音が聞こえてきそうで、いとおしくて仕方なかった。

向こうからは二重窓のせいでこちらは見えないのは分かっていながら、私もなんとか届きますようにと手を振り続けた。

エンジンがかかり、滑走路へと飛行機が動きだすと、それまで手元でパタパタ振ってくれてた手をぐんと伸ばして、大きな弧を描いて手を振ってくれてるのが見えた。

だんだんと 小さくなりながら右に流れていく景色の中で、お母さんの白い「旗」は はっきりと、くっきりと、わたしに向けて振られてるのがわかった。

小さなはずのお母さんが、展望デッキのお見送りの人の誰よりも大きく見えた。
すごく哀しい、すごく切ない、だけどすごく安心であたたかい、なんともいえない景色だった。

わたしに いつもいつでも変わらない無償の愛をくれるお母さん。

いろんな想いをぜんぶ笑顔に変えて、心配させないように爽やかに送り出してくれるお父さん。

ありがとう、ほんまにありがとう、と、空気を越えて伝わるようにと心の底から祈った。

ビデオ

こどものころのビデオを観た。
2歳のおひなまつりや、3歳の大雪、6歳のお誕生会やお正月。

ぜんぶお父さんが、私やみぃが遊ぶ姿を、静かに時々やさしく話し掛けながら撮ってくれてた。
若いお母さんがときどき現れ、わたしがどんなにしつこくおんなじ遊びをしても、にこにこ笑いながらいっしょに遊んでくれてた。


私が覚えてる景色の中のお母さんは完璧「お母さん」なのに、ビデオに映るお母さんは、今の私より若かった。

ビデオでみるとずいぶん昔のことに思うのに、その時の鮮明な記憶が私の中にきちんとあるっていうのが奇妙な感じだった。
こんな子供に話してもわからないだろう、と思えるようなことでも、自分の中には記憶があって、あなどっちゃいけないなとまた思ったり。


今の私より若いお母さんと30歳にもならないお父さんのすごさを想った。


こうやってたっぷりもらった愛情でわたしの今のつぶつぶはできている。

2010-02-02

最後の晩餐